1867 薩摩藩士藤島賢方の三男として鹿児島県に生まれる
1882 四条派の平山東岳について日本画を学ぶ
1884 西洋画を志し上京するが、師を見いだせず神田の英学校に学んだのち帰郷する
1885 再び上京し丸山派の川端玉章に入門、玉堂と号する
1889 この年の秋口まで松岡壽の指導を受け、その後、山本芳翠の生巧館に入塾と思われる
1890 この年の前後に洋画に転向する
1891 明治美術会第3回展に白滝幾之助の名で処女作を出品、明治美術会に入会する
1893 明治美術会第5回展に《桜狩》を出品、森鷗外の目にとまる
三重県尋常中学校助教諭として津に赴任する
1896 黒田清輝に誘われ白馬会の結成に会員として参加する
白馬会には、1905年留学の途に着くまで毎回出品する
東京美術学校西洋画科助教授となる
1899 町田タカ(高子)と結婚する
1901 『明星』第11号より表紙絵を担当する(1906年12月まで)
与謝野晶子の歌集『みだれ髪』表紙絵と挿絵を制作する
以降与謝野鉄幹、晶子のために装丁を数多く手掛ける
1902 白馬会第7回展に《天平の面影》ほかを出品する
1903 白馬会第8回展に《譜音》を出品、上田敏に激賞される
長女由利子が生まれる
1904 藤島洋画研究所を自邸に開設
セントルイス万国博覧会に《花見の図》を出品する
1905 この頃藤島洋画研究所は白馬会駒込研究所と改称される(留学のため同年閉鎖)
文部省より外国留学を命ぜられ、渡仏する
1906 アカデミー・グランド・ショーミエールと国立美術学校の専科に学ぶ
1907 ベルギー、オランダ、ドイツ、イギリスを巡り各美術館を訪れる
1908 前年末イタリアに到着、ローマでカロリュス=デュランの指導を受ける。
イタリア各地を旅しルネサンス美術や古代遺跡に触れる。スイス旅行中に作品が盗難に遭う
1910 イタリアからマルセイユを経て帰国する
最後の白馬会展となる第13回展に滞欧作を出品する
東京美術学校教授に任命される
1911 長男、二郎が誕生する
1912 岡田三郎助と準備を進めていた本郷洋画研究所を開設する
1913 川端絵画研究所の教頭となる。これにより本郷洋画研究所は岡田に委ねる
文展二科設立運動に助力する
1914 第8回文展審査員を嘱託される。
1918 東京美術学校西洋画科の担当制度が変わり、藤島教室が出来る
1924 帝国美術院会員となる。第5回帝展に《アマゾーヌ》《東洋振り》を出品する
1925 フランス政府からオフィシエ・ド・ランストリュクシオン・ビュブュリック勲章を受章
1926 東京府美術館開館記念、第1回聖徳太子奉賛美術展に《芳蕙》を出品する
1927 第8回帝展に審査員として《鉸剪眉》を出品する
1928 宮中御学問所を飾る油彩画制作を拝命、旭日を描くことと定め、その後ほぼ10年にわたり日の出を求めて各地を旅する
1929 第10回帝展に《風景》(淡路遠望)を出品、この頃から風景画が制作の中心になる
1932 第13回帝展に《大王岬に打ちつける激浪》を出品する
1933 勲三等に叙せられ瑞宝章を受章する
1935 第10回朝鮮美術展審査員として朝鮮に渡る
帝国美術院の改組に反対して結成された第二部会展の動向を支持し、同会に《神戸港の日の出》を友情出品する
台湾美術展覧会の審査員として台湾に渡り《波濤》を出品する
1936 第1回新制作派協会展に《室戸岬燈台》《日の出》などを賛助出品する
「帝国美術院改革に関する意見書」を文部大臣に提出する
1937 第1回文化勲章を受章する
満州国の防日宣詔記念美術展覧会の審査員を委嘱され満州に渡る
帝国芸術院会員となる
《旭日照六合》が完成し奉納、翌年の新春宮中御学問所に掲げられる
1938 第1回満州国美術展覧会相談役として新京に赴く。
審査後、陸軍省の委嘱で中国中南部の戦跡を回る
第2回新文展に《耕到天》を出品、帝展改組以来10年ぶりの官展出品となる
1939 妻高子、脳溢血のため死去
第1回聖戦美術展に審査員として《蘇州河激戦の跡》を出品する
岡田三郎助の死去にともない、東京美術学校油画科主任となる
この頃より日動画廊の長谷川仁・林子と親交を持つ
1940 文展に代わって開催された紀元二千六百年奉祝美術展に《蒙古高原》を出品する
『藤島武二画集』が刊行される(春鳥会)
1941 最初の戦争記録画《上海黄浦港》が完成し、帝室技芸員任命の記念として帝室博物館に寄贈する
軽度の脳溢血をおこし、病床につく
1942 第7回新制作派協会展で留学時代の作品《黒扇》など16点が特別出品される
1943 勲2等に叙せられ瑞宝章を受章。3月脳溢血のため逝去(享年75歳)